『太陽がいっぱい』と『リプリー』
エッセイの性格上、取り上げる作品の内容、仕掛け、結末などに触れています。ご覧になっていない作品についてはご注意下さい。

更新日:2006/12/4
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 よく、「所詮(しょせん)、リメイクはオリジナルを超えられない」という言葉を耳にする。
 本当にそうなのだろうか?

 この連載でも、これまで取り上げてきた3作品については、リメイク版がオリジナルを超えているとは言い難(がた)かった。
 しかし、もし本当に “オリジナルを超えられないのがリメイクの宿命” なのだとしたら、監督たちは、どうして先人の作品を作り直そうなどと考えるのだろう。
 いったい、彼らを「リメイク」に駆り立てるものは何なのか。

 そもそも、リメイク版は最初から分(ぶ)が悪い。
 リメイクの対象となるオリジナル映画は、当然のことながら、そのほとんどが極めて優れた作品であるからだ。
 だって、そうでしょ? 映画を作るには莫大なお金がかかる。誰の記憶にも残らないつまらない映画を、借金してまでリメイクしようとする人間なんて、まずいないよね。

 つまり、オリジナル版はもともと、多くの観客の支持を獲得した名作であるのが普通なのだ。さらに言えば、映画の歴史を塗り替えるほどの大傑作と評されたものだって少なくはない。
 そんな凄(すご)い作品を、敢(あ)えて作り直そうというのだ。リメイク版が作られる時点で、すでにオリジナル作品は映画ファンにとって絶対的な存在になっている。前作を超えるものを生み出すなんて、並大抵(なみたいてい)のことではない。

 だから、オリジナル版のファンから浴びせられる罵声(ばせい)など、ハナから覚悟していなきゃならないのだ。賢明な監督や映画製作者なら、そんなことは重々承知のはずだ。
 にもかかわらず、監督たちは性懲(しょうこ)りもなくリメイク版を作る。あとからあとから作り続ける。
 どうしてなのだろう。

 どうせ作るなら、オリジナルを超える作品に仕上げてほしい。観客に――とくにオリジナルを支持している観客に「所詮、リメイクはさ……」などと言わせないような作品を作ってほしい。
 でなければ、作る意味もないだろう。監督だって、きっとその決意で製作に臨(のぞ)んでいるに違いないのだ。

 そう。
 できないわけはない……と、思うのだ。

 今回は、そんな疑問の答えに近づくための、ヒントとなりそうな作品を取り上げてみたい。
 それは、アンソニー・ミンゲラ監督による『リプリー』だ。

 とは言っても、この映画も残念ながら、やはりオリジナル版の熱狂的な支持層からはあまり評判がよくなかった。

 オリジナルは、巨匠ルネ・クレマン監督が撮った不朽(ふきゅう)の名作『太陽がいっぱい』。
 うーん、良い映画だからなあ。
 僕も大好きな映画なんですよ、これ。
 あまりにも好きだったから、小説を書くときにラストシーンを真似(まね)したくなっちゃったってこともあるんだから。いや、ほんと。

 ルネ・クレマンって言われても、ピンとこない? ほら、『禁じられた遊び』とか、『危険がいっぱい』とか。そのクレマン監督が1960年に作ったのが、この『太陽がいっぱい』だ。
 この映画は、世紀の二枚目俳優アラン・ドロンを世界的に有名にした作品としても知られている。
 そして、ニーノ・ロータの甘美(かんび)な主題曲――。
 とにかく、この映画を愛してやまないファンは、ものすごく多い。もう半世紀近く前の映画だけれど、いま観たってまるで古びちゃいない。

 だから、リメイクが作られたというのを聞いて、僕は、えーマジかよぉ、と思ってしまった。あの名作を壊(こわ)してほしくないなあ、というのが正直な僕の気持ちだった。
 じゃ、観なきゃいいじゃん、と思われるかもしれないが、結局観てしまうのが映画好きの哀れな性(さが)とでも言いましょうかね。

 ただ、同時に、ちょっぴりの期待もあったのだ。
 それは、リメイク版を監督したのがアンソニー・ミンゲラだってことだった。彼の『イングリッシュ・ペイシェント』は、アカデミー賞9部門を総なめにし、世界各国で賞を取りまくったという傑作だ。果たして、彼はどんなふうに『太陽がいっぱい』をリメイクしたのか――興味があった。

 観て、僕は軽いショックを味わった。
 そうか……こういう切り込み方があったんだ。

 実際に映画を観てわかったことは、この『リプリー』は『太陽がいっぱい』のリメイクではなかったのだということだった。
○◎○
 
 
○◎○
 オイ、ちょっと待て、と声が掛かりそうだ。
 寝ぼけたことを言うんじゃない。『太陽がいっぱい』のリメイク版だと、さっき言ったばっかりだろう。あちこちの映画紹介記事にもリメイクだと書かれている。なにを言ってるんだ。

 いや、違うのだ。
 おそらく、アンソニー・ミンゲラ監督自身も『太陽がいっぱい』をリメイクしようなんて考えてなかったんじゃないかと思うのだ。
 彼は、純粋に『リプリー』が作りたかったんじゃなかろうか。ミンゲラ監督の出発点は『太陽がいっぱい』じゃなくて、その原作のほうだったんだろうって思うのだ。

 『太陽がいっぱい』と『リプリー』に共通する原作は、パトリシア・ハイスミスが書いた“The Talented Mr. Ripley”という小説である。
 この小説は、原題を直訳した「才子リプリー君」として日本に紹介されたこともあるのだが、翻訳出版されたのは『太陽がいっぱい』が公開された後だった。原作本だという売り方がなされたので、邦訳版のタイトルも『太陽がいっぱい』になったという経緯(いきさつ)がある。そして、ミンゲラ監督の『リプリー』が公開された今、入手できる邦訳版は『リプリー』に改題されている。

 原作が同じであっても、映画化されたものがすべて同じになるわけではない。作り手が変われば、作品は違ってくるのが当然だ。
 つまり、“The Talented Mr. Ripley”という原作を、二人の監督が、違った解釈によって映画化した、という見方をしなければならないことに、僕は『リプリー』を観て気がついたというわけだ。

 では、『太陽がいっぱい』と『リプリー』はどう違うのか。

 ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』は、実は、原作とはずいぶん違った作品になっている。それに対して、アンソニー・ミンゲラの『リプリー』は、かなり原作に忠実だ。
 最もその違いが顕著(けんちょ)なのは、主人公トム・リプリーの殺人にいたる動機、あるいは彼を支配している感情の捉え方についてだった。
 アラン・ドロンが演じる『太陽がいっぱい』のトム・リプリーは、劣等感から生じたねじ曲がった感情によって殺人を犯す。
 しかし、マット・デイモンの演じるリプリーを殺人にまで追いやり、ディッキー・グリーンリーフに成り代わろうとさせたのは、彼の孤独感、疎外感(そがいかん)によるものなのだ。

 “劣等感”と“孤独感”――主人公を支配するこの感情の違いが、二つの映画のテーマをはっきりと分けることになった。
○◎○
 
 
○◎○
 だから、二人のトム・リプリーは、全然違った印象を我々観客に与える。
 『太陽がいっぱい』があまりにも素晴らしい出来だったために、そしてこの作品がアラン・ドロンの出世作となったために、トム・リプリーのイメージは完全にアラン・ドロンに固定されてきた。
 『リプリー』が作られるまでの40年間、トム・リプリーはずっとアラン・ドロンと同一視され続けてきたのだ。

 その人物を、マット・デイモンが演じた。
 当然のように「あんなのはトム・リプリーじゃない」という声が上がった。
 観客たちは、作品の主人公としてのリプリーではなく、アラン・ドロンとマット・デイモンを比較して評価を下そうとしたのだ。

 「あんなに不細工で田舎者のリプリーなんて、ありえないだろ」
 「なんでマット・デイモンなの? ディッキー役のジュード・ロウがリプリーなら、まだゆるせるかもしれないけど」

 しかし、パトリシア・ハイスミスの原作が描き出したテーマを忠実に映画化するとなれば、マット・デイモンほどトム・リプリーを演じ切ることのできる俳優は、そうそういないんじゃなかろうか。

 マット・デイモンの演じるトムは、映画が進行するにつれて徐々に変化する。上流社会とはまったく縁がなく、ダサくて田舎者丸出しの青年が、ディッキー・グリーンリーフの影響を受け、彼に憧(あこが)れ、彼のようになりたいと夢想するうちに、次第に洗練されてくる。顔つきまで変わってしまう。しかし、どのように変わっても、彼には孤独がつきまとう。彼の周りを囲む壁は、さらにさらに厚くなっていく。どんなにあがいてみたところで、トムはいつでもひとりぽっちだ。それがなんとも、もの悲しい。

 一方で、アラン・ドロンのトムは変わらない。彼は映画の最初から最後まで、劣等感を抱えたどこかアブない青年のままだ。ずる賢(がしこ)く、機転が利(き)き、冷たい。美男子の彼が演じるから、なおのこと不気味なのだ。

 周りを固めている役者たちにしても、監督の作品に対する解釈の違いがよく表れている。

 トムに殺されることになるディッキー・グリーンリーフを、『リプリー』ではジュード・ロウが演じ、『太陽がいっぱい』のほうはモーリス・ロネが演じている。(ただ『太陽がいっぱい』では、原作とは違って彼の名前はフィリップ・グリーンリーフとフランス風に変えられているのだが)

 モーリス・ロネのフィリップは、いかにも奔放(ほんぽう)に青春をエンジョイする金持ちのボンボンだ。彼に取り入ろうとするトムを、フィリップは面白がり、からかい、下男として扱う。ルネ・クレマンは、フィリップとトムを階級社会の上下関係に置き換えて描いている。
 だからこそ、トムの抱える劣等感が生きてくる。

 ところがアンソニー・ミンゲラは、ディッキーを上下関係ではなく、憧れの対象として描いた。トムにとってだけではなく、ディッキーは周囲の誰にとっても憧れの的なのだ。彼はかっこ良く、勝手気ままで、気分屋の不良息子だ。『リプリー』では、冷たい性格に描かれているのはトムではなく、ディッキーのほうなのである。だから、ミンゲラ監督は、どこか金属的な冷たさを感じさせる二枚目のジュード・ロウをディッキー役に選んだのだろう。

 どちらの配役が正しいというものでは、もちろんない。
 作品が描こうとしているものから考えれば、両方とも実に適材適所だなあ、と僕などは感じる。

 そんな具合に見ていくと、ディッキーの婚約者であるマージの描き方も、二つの映画では正反対と言っていいほど異なっている。
 『太陽がいっぱい』では、フィリップと同様名前が変えられていて、マルジュというのが婚約者なのだが、彼女を演じているのはマリー・ラフォレだ。そして『リプリー』でマージを演じているのは、グウィネス・パルトロウ。

 マルジュの存在感は、やや薄い。
 映画に彩(いろど)りを添えてはいるものの、あくまで彼女はフィリップの婚約者という枠(わく)からははみ出さない。ある意味で、フィリップの添え物――彼の所有物といった描き方がされているのは、時代の違いもあるのかもしれない。
 だって、彼女は、映画の終盤では、トムの恋人のような位置にまで落とされてしまう。つまり、トムの戦利品の1つ、というわけだ。

 対して、マージは強い。
 トムに対する彼女の感情は、映画の進行に従って180度変化する。最初は好意的に見ていたトムを、マージは次第に疑うようになっていく。映画の最後のほうで、彼女はトムに平手打ちを食らわそうとまでする。
 ついにはトムに寄り添ってしまうマルジュとは、エライ違いだ。マージだけが、トムの本質を見抜くのだ。
 つまり、ここでもミンゲラ監督は、トムの孤独と疎外感を裏打ちするための演出を、マージに要求したのだろう。

 『太陽がいっぱい』は、第一級のサスペンス映画だ。
 ラストシーンに掛かるドンデン返しは、観客に息を呑(の)ませた。そして、それがトム・リプリーの崩壊(ほうかい)を予感させて映画は潔(いさぎよ)く幕を閉じる。

 『リプリー』にもサスペンスはあるが、主題はそれではない。ミンゲラは、人間が心の中に抱えている暗い部分をトム・リプリーに演じさせた。
 映画は、なんとももの悲しい。マット・デイモンの引きつったような笑顔が、彼の孤独を増幅している。

 『太陽がいっぱい』の評価は揺らぎようもないし、『リプリー』がそれを超える評価を得られるかと言えば、やはり難しいと僕も思う。

 でも、リメイクがオリジナルを超えるための何かを、アンソニー・ミンゲラ監督は見せてくれたようにも感じるのだ。

イラスト:白根ゆたんぽ
【DVD情報】
オリジナル版 『太陽がいっぱい』
●オリジナル版
『太陽がいっぱい』
監督: ルネ・クレマン
脚本: ポール・ジェゴフ/ルネ・クレマン
初公開日: 1960年6月
出演: アラン・ドロン/マリー・ラフォレ/モーリス・ロネ他
 
形式: Color, Widescreen,Dolby
言語: フランス語
ディスク枚数: 1
DVD販売元: ジェネオン エンタテインメント
DVD発売日: 2002年10月25日
時間: 117 分
リメイク版 『リプリー』
●リメイク版
『リプリー』
監督: アンソニー・ミンゲラ
脚本: アンソニー・ミンゲラ
初公開日: 2000年8月
出演: マット・デイモン/ジュード・ロウ/グゥイネス・パルトロウ他
 
形式: Color, Widescreen, Dolby
言語: 英語, 日本語
ディスク枚数: 1
DVD販売元: 松竹
DVD発売日: 2004年11月25日
時間: 140分
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