『ニキータ』と『アサシン』
エッセイの性格上、取り上げる作品の内容、仕掛け、結末などに触れています。ご覧になっていない作品についてはご注意下さい。

更新日:2007/1/11
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 ハリウッドには――いや、アメリカには、映画のリメイクについて独自の事情が存在しているように、以前から僕は感じている。

 その事情というのは、アメリカ人は、どうやら他の国で作られた映画をあまり観たがらないらしいってことなのだ。

 字幕のついた映画を嫌う国、ということなら他にもある。
 たとえばフランスでは、輸入品の映画はすべて吹き替えになっていて、イギリス人だろうがイタリア人だろうが日本人だろうが、映画に登場する俳優は誰もが流暢(りゅうちょう)なフランス語を喋(しゃべ)る。テレビで放映される映画の話ではない。映画館で上映されているものが、すでに吹き替えなのだ。
 フランスに限らず、そういう国はかなりあると聞いた。

 ところが、アメリカでは吹き替えでさえ嫌がられる。
 フランス同様、アメリカもやはり外国映画は吹き替えが基本なのだが、アメリカ原産の映画以外は上映してもほとんど客が入らないらしいのだ。アメリカ人たちは、どうも、自国で作られた映画以外、まるで興味を持てないという体質を抱えているってことらしい。
 彼らは、自分たちの国で、自分たちの仲間が、自分たちの言葉を使って演じてくれる映画が大好きなのだ。

 そもそも、アメリカ合衆国は自給自足の国だ。なにもかもを輸入に頼っている日本とは、エライ違い。
 なにせ、国土は広く、資源は豊富。多種多様な人種を抱え、世界のリーダーだという確固とした自負(じふ)を持っている。他の国に頼る必要など、どこにもない。全部自分のとこだけで賄(まかな)えちゃう。

 だから、映画もそうであるらしい。

 だってそうでしょ?
 たとえば、アカデミー賞っていうと、なんだか映画に与えられる最高の栄誉のように思っている人が多いだろうと思う。とりわけアメリカ人の大半は、アカデミー賞授賞式が世界最大の映画祭だと信じて疑わないに違いない。
 断っておくが、だけどあれは、アメリカで製作された映画だけを対象にした身内の賞だ。譬(たと)え方が正しいかどうかわからないが、アカデミー賞というのは、いわば〈地区予選会〉のようなものなのだ。
 ハリウッドにある映画館で劇場公開されたものなら、アメリカ以外の国で作られた映画も一応は対象として考慮されるが、それらは〈外国語映画賞〉という一部門だけで一括(ひとくく)りにされてしまう。つまり、〈字幕をつけたり吹き替えにしないとわけがわからない映画〉っていう分類なのだ。いくら優れた映画であろうと、それがアメリカ製でなければ、作品賞や監督賞などにはノミネートすらされない。

 ちなみに、世界三大映画祭というのがあるけれど、それはカンヌ国際映画祭、ヴェネチア国際映画祭、ベルリン国際映画祭のことだ。
 アカデミー賞は入っていない。
 だけど、アメリカ人たちは、そんなことは気にしない。彼らにとってみれば、アカデミー賞こそが世界最大の映画賞なのだから。

 偏見だろうか。
 でも、僕にはそんなふうに見えるのだ。

 彼らは、他の国で作られた映画を輸入して、そのまま観賞しようなんて考えない。字幕を入れようと、吹き替えを作ろうと、そういう映画には興味もない。
 なら、どうするかというと、良い映画は自分たち用に作り直すのが一番だ、と思っちゃうらしいのだ。

 ハリウッドでは、毎年かなりの数のリメイク版が製作されている。その中で、オリジナルが外国産の映画だというものは、決して少なくない。

 今回取り上げる『アサシン 暗・殺・者』も、そんな事情で作られた作品だ。
 オリジナルは、フランス映画の鬼才リュック・ベッソンの『ニキータ』。

 リュック・ベッソンというと、やはり『レオン』をまず思い浮かべてしまうけれど、彼は『グラン・ブルー』とか『フィフス・エレメント』、『ジャンヌ・ダルク』といった数々の傑作、問題作を生み出している。
 他にも、製作・脚本を担当した『TAXiシリーズ』や、『WASABI』『YAMAKASI』なんてのもある。どれもが独自の強烈な個性を主張する作品ばかりだ。

 リュック・ベッソンの映画をハード・アクションと言ってしまうのは、やや抵抗があるけれど、彼の作品のウリの1つがアクションにあることは間違いない。
 ただし、これは画面上でのアクションもあるが、僕に言わせれば、リュック・ベッソンの映画は、ストーリー自体が激しく揺れ動く作られ方をしているのだ。そういう意味でのアクション映画だと思う。
 この『ニキータ』にしてもそうだけれど、スクリーン上ではほとんど動きのないシーンでこそ、そこでは激しい感情が暴れ回っているように感じてしまう。カッコつけた言い方をすれば、静の中に動があり、動の中に静があるような演出――なんてね。

 その『ニキータ』を、ジョン・バダム監督がリメイクした。
 極(きわ)めて器用(きよう)な監督だ。
 最初のヒット作は『サタデー・ナイト・フィーバー』だろうが、『ブルーサンダー』や『ウォー・ゲーム』、『バード・オン・ワイヤー』といった娯楽作品の秀作を送り出してきた。まあ最高傑作は、なんといっても『張り込み』ってことになるだろう。リチャード・ドレイファスの好演が光っていて、僕も大好きな作品だ。
 いずれにせよ、観客の興味を惹(ひ)きつける演出が、ジョン・バダム監督は実に巧みだ。

 『アサシン』は、かなり忠実に『ニキータ』をリメイクした作品に仕上がっている。その出来映えも、さすがにエンターテインメント職人ジョン・バダムだけあって、なかなかのものだ。
 アンケートを採ったわけではないから断言などできないが、2つを比べた場合、『ニキータ』が好きな人と『アサシン』のほうが好きな人は、ほぼ半々に分かれるかもしれない。そう思ってしまうぐらい、『アサシン』もよくできている。

 さて、オリジナルとリメイクは、ほとんど同じように作られているのだが、当然のことながら、細かい部分には違いがある。その違いが、ファンの支持を分けるかもしれないと、僕に感じさせているのだと思う。
 ある意味で、それはとても興味のある違いなのだ。
○◎○
 
 
○◎○
 興味ある違い――。

 アメリカ映画とフランス映画の違いについて考えたことがおありだろうか。言葉の違いとか、ドラマの舞台となっている風土の違いといった意味ではない。
 たとえばそれは、映画を見終わった後、自分の心の中に残る感覚の違いだ。

 こんな映画があったとしよう。

 砂漠を彷徨(さまよ)う男の姿がスクリーンに映し出されている。
 行けども行けども、砂、砂、砂……。
 水筒の水は、もう2日前に尽きた。カラカラに乾ききった親指大のパンを最後に口にしたのは、あれはいつのことだっただろう。せめて水の1滴でもあれば、と思うが空には雲のかけら1つない。強烈な陽光が、彼の顔や手を焦がし続ける。
 力尽き、砂地に倒れ込んだ彼の目に、空を旋回するハゲタカの姿が映る。ああ、オレは死ぬんだ……そう思ったとき、頭上を旋回していたハゲタカが静かに舞い降りてくる。そして同時に、バタバタという激しい羽ばたきの音。
 ふと、彼はその羽ばたきがあまりにも規則的な音であることに気づく。見上げると、巨大なハゲタカの姿――いや、それは鳥などではなく、着陸態勢に入ったヘリコプターだったのだ。
 ヘリコプターから彼の婚約者が砂漠に降り立ち、倒れている彼に走り寄る。婚約者が彼を抱きしめ、そこにエンドロールが流れ始める――。

 これが、ハリウッド製の映画だとしよう。
 対してフランス映画だと、同じシチュエーションがどう変わるか。

 ――頭上を旋回していたハゲタカが静かに舞い降りてくる。
 ハゲタカの数は1羽、2羽……と増え、いつのまにか彼は8羽のハゲタカに取り巻かれている。
 ゆっくりと近づいてきた1羽のハゲタカが、様子を窺(うかが)うように、露出した彼の掌(てのひら)をつつく。彼にはもう、その鳥のクチバシを追い払う力も残っていない。
 8羽のハゲタカが彼に群がる。彼の手が完全に動きを止めたとき、無情にも、その掌に1滴の雨粒が落ちてくる。
 降り出したスコールの煙る中で彼の身体はハゲタカに包まれるように見えなくなる。
 そこにエンドロールが流れ始めるのだ――。

 極端ではあるけれど、アメリカ映画とフランス映画には、こんな違いがある。

 フランス映画は、ときに残酷で容赦(ようしゃ)がない。物語の結末は、無情で救いがない。そして、はっきりとした結末が提示されることもなく、観客に映画の後の結論を預けるようにして、静かに終わってしまう。
 なんともすっきりしない終わり方の映画も多いのだ。

 対して、アメリカ映画は、ほとんどがハッピーエンドだ。
 悪は滅(ほろ)び、謎は解決し、希望の未来が提示され、すっきりした気分の中で映画が終わる。

 そういう違いが、『ニキータ』と『アサシン』にもある。

 ストーリーを簡単に言ってしまうと、警官殺しで捕まった女の子が、殺し屋としての教育を受け、裏の政府組織からの指令を受けて暗殺者となり――というのが大筋。

 ジョン・バダム監督の演出は、とても明快で潔(いさぎよ)い。
 オリジナル版でリュック・ベッソンがやった工夫も、それが効果的だと思えば、平気でそのまま取り入れてしまう。

 たとえば、冒頭、街のチンピラたちがドラッグストアの襲撃に向かう場面で、ベッソン監督は妙な演出を加えた。
 チンピラは主人公のニキータを含めて5人いるのだが、そのうちの1人は、酔いつぶれているのか、あるいは麻薬で酩酊(めいてい)状態なのか、仲間に首根っこをつかまれてだらしなく道を引きずられているだけなのだ。彼は、ドラッグストアの前にドサリと落とされて、ただ放置される。警察との銃撃戦に加わることもない。
 何の役にも立たないし、ただのお荷物で邪魔なだけだ。その後のストーリーに絡(から)んでくることもない。

 ジョン・バダムは『アサシン』の冒頭で、このお荷物のチンピラをそのまま使った。『ニキータ』と同様、彼は首根っこを持たれて引きずられ、ドラッグストアの前に放り出される。
 厳密に言えば、この情けないお荷物君は、話にはまったく不要なキャラクターだ。だが、彼の存在によって、チンピラたちの異常さが浮き立ってくる。チンピラたちが夜の街を歩く映像に、1人が引きずられているのとそうでないものを比較すれば、その効果の違いは明らかだ。

 だから、ジョン・バダムは、その演出をそのままいただいたのだろう。
 おい、おい、と言いたくもなるが、まあ、ある意味、とても潔い。

 それほどまでにオリジナルをコピーするなら、いっそ映画のすべてを同じようにしてしまえば……とも思ってしまうし、日本人の僕などは、いや、リメイク版など作らずに『ニキータ』をそのまま観ればいいじゃないか、とすら思う。

 ところが、話はそんなに単純に運ばない。
 なぜなら、ジョン・バダムは、アメリカ人の、アメリカ人による、アメリカ人のための映画を作っている監督だからなのだ。
○◎○
 
 
○◎○
 話をわかりやすくするために、ちょっと乱暴な区分けをしてみよう。
 映画ファンを、むりやり『ニキータ』派と『アサシン』派に分けてみる。
 どうしてそんなことをするかというと、この両派、映画に期待するものが微妙に違っているのではないかと思うからなのだ。

 おそらく『アサシン』派は、〈映画は娯楽〉と割り切って楽しむタイプの人たちだ。わかりやすい筋運びと、すっきりした後味を求めている。

 それに比べて『ニキータ』派は、映画に〈余韻〉を求めるタイプの人たちだろう。謎が謎のまま置き去りにされてしまうことで観る側の想像が膨(ふく)らむなら、それを期待してしまう。

 つまり、白黒はっきりした筋立てを好むアメリカ人のために、ジョン・バダム監督は『ニキータ』に手を加えて『アサシン』を作る必要があったのだ。

 例を挙げよう。

 暗殺者としての訓練を終えた主人公は、偽名を与えられて街に放たれる。そこで彼女は、早速(さっそく)、恋人を作り彼との同棲生活を始めるのだが、そんなところへ最初の指令の電話がかかってくる。
 指令は、あるホテルへ行け、というそれだけ。わけもわからず指示されたホテルへ行くと、メイドの制服に着替えさせられ、ある部屋にルームサービスの食事を運ぶようにと言われる。食事を届けて戻ると、もう帰っていい、と告げられるのだ。彼女には、この仕事の意味がよくわからない。
 ここまではオリジナルもリメイクも同じ展開だ。この先が違ってくる。

 『ニキータ』の場合――不安だった気持ちが嘘のように吹っ切れてしまった主人公は、意気揚々とアパートに帰る。そして、電話で最初の仕事は成功だったということだけが報されるのだ。
 自分のやったことが何だったのか、最後までわからない。でも、かまわず映画は先へ進んでいく。彼女のほうにしても、過ぎ去ったことは早く忘れてしまいたいという気持ちのほうが大きいのだろう。

 おそらく、アメリカの人たちにとっては、この『ニキータ』の展開では我慢ができないのだ。
 結局、なにをさせられたんだよ、と腹を立ててしまう観客もいるのかもしれない。あの後、食事が届いた部屋の連中に何が起こったの?

 『アサシン』の主人公は、ニキータのようにはしゃいではいない。
 複雑な思いを抱えてホテルを後にし、自分の車に乗り込む。車をスタートさせようとしたその瞬間――出てきたばかりのホテル最上階の窓すべてが、大爆発を起こして火を噴(ふ)くのだ。
 彼女は、呆然(ぼうぜん)とホテルを見上げ、自分のやったことの意味を知る――。

 ハリウッド映画では、わかりやすい展開が求められるのだ。
 べつに、アメリカ人の思考力がフランス人よりも劣っているとは思わないが、映画では、そこで何が起こっているのか、何を伝えようとしているのかを明確に描かれることが望まれる。
 これは、国民性なのかもしれない。

 映画は、主人公をめぐる2つの愛の形を追うようにして進行する。大勢の人が殺される話ではあるけれど、この映画はどちらかというとラブストーリーなのだ。

 2つの愛は、主人公の教育担当官であるボブとの関係と、同棲相手――『ニキータ』ではマルコ、『アサシン』ではJ.P.というのが彼らに与えられた名前だ――との関係の絡み合いとして描かれる。

 ラストで、ジョン・バダム監督は、やはりハリウッド的な締めくくりを映画に与えた。

 最後の仕事を終え、主人公は、暗殺者という境遇と組織から逃げ出すことを決意する。その決意は、同時に、つらい選択の結果でもある。それはボブとの訣別(けつべつ)、そしてマルコあるいはJ.P.との離別をも意味しているからだ。
 2つの不器用な愛が、そこで終わってしまう……。

 主人公の去った部屋で、最後に2人の男が向かい合う。
 彼女から預かったボブ宛の手紙を破り捨てたと、彼(マルコ、J.P.)は告げる。

 『ニキータ』で、ボブは「文面は?」とマルコに訊(たず)ねる。
 マルコは、ボブを見つめながら、無言でタバコに火をつける。
 そのマルコを見つめているボブの頬(ほほ)が、ふと綻(ほころ)ぶ。破り捨てたというマルコの言葉から、ボブはその手紙の内容を理解するのだ。
 「お互い、寂(さみ)しくなるな」
 と、ボブが言うと、マルコはタバコの煙を吐き出しながら、ああ、と小さくうなずく――。

 これが『ニキータ』のラストシーンだ。
 『アサシン』では、違った印象のラストが待ち受けている。

 「内容は?」とボブは、手紙について訊ねる。
 J.P.はそれに答えず、2人はお互いをにらみ合う。
 組織での教育中、主人公はニーナ・シモンのレコードがほしいとボブに訴えた。そのこともあって、彼女には「ニーナ」という暗号名が与えられていた。ただし、J.P.にとって彼女は、偽名のクローディアだ。
 にらみ合いの目を避けるようにして、ボブは脇の机からレコードを1枚取り上げる。彼が贈ったニーナ・シモンのレコードだ。「もらっていいか?」とボブはJ.P.に訊(き)く。
 「ニーナが好きなのか」と、J.P.は訊き返す。
 ボブはうなずきながら答える。
 「ああ……愛してる」
 もちろん、J.P.が訊ねたのは歌手のことだ。でも、ボブにとってのニーナは……。
 「寂しくなるな」という言葉を口にするのは、このリメイク版ではJ.P.のほうだ。その言葉に、ボブは「お互いに」と答える。

 しかし、違いはここで終わらない。
 『アサシン』のラストシーンはもう少し先なのだ。

 実は、主人公はまだ逃げていないのだ。J.P.にも秘密にして、彼女はボブの訪問を監視している。
 アパートを出て車に乗り込むボブを、彼女は物陰から見つめる。車が走り去ると、彼女は小さな溜め息をつき、ゆっくりと向きを変えて歩き始める。
 だがボブのほうも1枚上手だ。彼女が立ち去った路地に、車がバックして戻ってくる。ボブは、歩き去る彼女の後ろ姿を確認すると、おもむろに組織へ電話をかける。彼女は死んだ――そう伝えて、ボブは、これでいいんだと自分に言い聞かせるように、再び車をスタートさせる。
 さらに、その様子を、実は主人公も見ているのだ。彼女は小さく微笑(ほほえ)むと、また向きを変えて歩き始める――。

 まさしくハリウッド的だと言えないだろうか。

 さて、あなたは『ニキータ』派ですか?
 それとも『アサシン』派ですか?

イラスト:白根ゆたんぽ
【DVD情報】
オリジナル版 『ニキータ』
●オリジナル版
『ニキータ』
監督: リュック・ベッソン
脚本: リュック・ベッソン
初公開日: 1991年1月
出演: アンヌ・パリロー/ジャン=ユーグ・アングラード/ジャンヌ・モロー/ジャン・レノ他
 
形式: Color, Widescreen, Dolby
言語: フランス語、日本語
ディスク枚数: 1
DVD販売元: パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
DVD発売日: 2005年10月21日
時間: 117 分
リメイク版 『アサシン 暗・殺・者』
●リメイク版
『アサシン 暗・殺・者』
監督: ジョン・バダム
脚本: ロバート・ゲッチェル/アルクサンドラ・セレス
初公開日: 1993年6月
出演: ブリジット・フォンダ/ガブリエル・バーン/ハーヴェイ・カイテル/ダーモット・マルロニー他
 
形式: Color, Widescreen, Dolby
言語: 英語, 日本語
ディスク枚数: 1
DVD販売元: ワーナー・ホーム・ビデオ
DVD発売日: 2006年8月4日
時間: 109 分
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