『オープン・ユア・アイズ』と『バニラ・スカイ』
エッセイの性格上、取り上げる作品の内容、仕掛け、結末などに触れています。ご覧になっていない作品についてはご注意下さい。

更新日:2007/2/16
前の連載へトップに戻る次の連載へ

 前回、ハリウッドでのリメイクの特色として〈わかりやすさを求める国民性〉というものがある、とお話しした。
 今回は、そのあたりをもう少し掘り下げてみたい。

 映画『バニラ・スカイ』についてのインタビューで、監督キャメロン・クロウが語った言葉に、次のようなものがある。

 映画は、わかりやすく作られるべきだという説がある。
 映画は公開後、ビデオやDVDになる。誰もが何かをしながら見るのが普通、という時代なのだ。テレビの深夜枠で半分眠りながら見る人だっているに違いない。
 この作品は、真剣に見ないとわからない類(たぐい)の映画だが、でも私は、そのような見方をしても楽しめるものにした。


 どうやら、『バニラ・スカイ』が公開されると、わかりにくい映画だ、という声が多くの観客から挙(あ)がったってことらしい。
 なるほど、『バニラ・スカイ』は、どちらかといえば〈わかりにくい〉映画なのかもしれない。違うことをボーッと考えながら観ていたとしたら、この映画の面白さは伝わってこないだろう。

 だけど、この『バニラ・スカイ』のような映画は、そもそも、なにかべつのことをしながら観たり、半分眠りながら観たりするようなものじゃないのだ。
 いったい何が起こっているのか、なぜこんなことが起こるのか――それを追いながら観るから面白いのだし、主人公と同化してストーリーを受け入れるから驚きを得られたりもするのだ。

 キャメロン・クロウ監督は、わかりにくいという指摘に対して、ちょっぴり自虐的(じぎゃくてき)になって答えているけれど、彼だって『バニラ・スカイ』を眠りながら観てほしいなんて、これっぽっちも思ってはいない。
 それに、この映画は、なにかべつのことをしながら見始めた人でも、つい画面に惹(ひ)きつけられ、最後まで真剣に観せられてしまうぐらいの力を持っている。
 そのぐらい面白いのだ。
 逆に言えば、これはある意味で〈わからなさ〉を楽しむ映画なのだから。

 『バニラ・スカイ』のオリジナルは、スペイン映画『オープン・ユア・アイズ』である。

 アレハンドロ・アメナーバル監督は、この怪作を25歳という若さで作り上げた。しかも彼はこの映画で、監督、脚本、そして音楽までをもこなしている。まさに異才というほかない。
 この『オープン・ユア・アイズ』は、日本でもことのほか評価が高かった。1998年の東京国際映画祭が、この作品にグランプリを贈ったほどだ。

 アメナーバル監督は、この『オープン・ユア・アイズ』を撮った後、アメリカへ渡り、ハリウッドで『アザーズ』を作った。この作品も、かなり不思議な体験が味わえて、なかなか僕好みの映画に仕上がっている。この映画は英国アカデミー賞のオリジナル脚本賞を受賞した。
 さらに2004年には『海を飛ぶ夢』を作り、これはヴェネチア国際映画祭をはじめとして様々な賞を受賞している。
 とにかく、作る映画作る映画、すべてが話題作になるという若手No.1の監督なのだ。

 一方、リメイク版『バニラ・スカイ』を作ったキャメロン・クロウ監督も、その異才ぶりはアメナーバルに負けていない。
 彼は、音楽畑から身を起こした。なんと、16歳で音楽情報誌「ローリングストーン」の記者になったというんだから、ものすごい。
 22歳で書いた『初体験/リッジモント・ハイ』という小説がベストセラーになって、それが映画化される際、キャメロン・クロウは脚本を自分で書いた。
 自伝的な『あの頃ペニー・レインと』では、アカデミー脚本賞をはじめ、いくつもの賞を獲得している。

 前回の『ニキータ』と『アサシン』同様、オリジナルの『オープン・ユア・アイズ』とリメイクの『バニラ・スカイ』は、どちらもよくできている。やはり、これも好みは半々に分かれるかもしれない。

 ではここで、面白い比較をしてみよう。出来上がった映画の長さの比較だ。
 映画が始まってからエンドロールが流れ始めるまでの、純粋な長さを比べてみると、リメイク版『バニラ・スカイ』は、オリジナルの『オープン・ユア・アイズ』よりも14分だけ長いのだ。
 オリジナルをかなり忠実にリメイクしたものなのだから、この14分はクロウ監督によって『バニラ・スカイ』のために付け足されたものだと思っていい。
○◎○
 
 
○◎○
 キャメロン・クロウ監督は、インタビューの中で次のように述べている。
『バニラ・スカイ』の構成は、考えに考えたよ。
 映像は入念に計画してあり、無駄はない。
 つまり、当然のことだが、オリジナルよりも長くなった14分は、それが必要だったから加えられたものなのだ。無駄に長くなっているわけではない。
 では、その必要とは、なんだったのか。

 それが〈わかりやすさ〉のためだったのではないかと、僕は思う。

 例えば、冒頭――。
 映画は主人公がベッドで目覚めるところから始まる。

 オリジナルでは、真っ暗な画面に女性の囁(ささや)きが聞こえてくる。"ABRE LOS OJOS(目を覚まして)"と何度も繰り返されるうちに、ベッドの中から主人公の手が伸び、声を発し続けている目覚ましのボタンを押すのだ。(注)

 リメイク版では、ニューヨークの街を見下ろす空撮から映画が始まる。カメラは次第に高級アパートの窓に近づき、そこに"OPEN YOUR EYES(目を開けて)"という女性の囁きが聞こえてくる。カットが室内に変わり、主人公の目覚めが描かれる。

 つまり、クロウ監督は、観客に「ここはニューヨークにある高級なアパートの一室ですよ」ということを知らせてから、物語を始めることにしたわけだ。
 とても丁寧(ていねい)でわかりやすい。

 アメナーバル監督は説明などしない。
 いきなりベッドの主人公のアップから始めてしまう。

 好みの問題もあるから、どちらが良いとは一概(いちがい)に言えるものではない。おそらく、アメリカ人の観客には、クロウ監督の演出のほうが好まれるのだろうということなのだ。

 例えば、背景――。
 主人公は大会社の青年社長だ。『オープン・ユア・アイズ』では、セサールというのが彼の名前。『バニラ・スカイ』では、デヴィッドになっている。

 オリジナルでは、会社などの背景はさほど語られない。実業家の父から受け継いだ会社で、セサールの血を吸い取ろうとしている共同経営者たちの存在が、台詞(せりふ)の中で断片的に現れるだけだ。

 しかし、リメイク版ではかなりの力を入れてこの背景が描かれる。
 デヴィッド・エイムス・Sr.という父親は、番組案内雑誌「ライズ」を発行する会社を創設して富豪となった人物で、彼の「王国を守るもの」という自伝もベストセラーになったこと。主人公デヴィッド・Jr.は、親の死後、株の51%を所有する社長となったこと。しかし、実際の経営を牛耳(ぎゅうじ)っているのは7人の役員たちで、デヴィッドは彼らにあだ名をつけて呼んでいること。「くしゃみ」「はにかみ」「眠り目」「ハッピー」「ドクター」「おバカ」「ニガ虫」というのがその7人であること等など――実に丁寧に描かれるのだ。
○◎○
 
 
○◎○
 この映画は、ラストにとんでもないドンデン返しを用意している。いわゆる〈衝撃の結末〉だ。その結末は、映画を観ていない人には絶対に教えてはいけない類のものである。〈衝撃〉を味わう権利を奪うことなど、誰にも許されない。
 だから、このエッセイでも多少歯切れが悪くなるのをお許しいただきたい。

 ただ、ストーリーの随所(ずいしょ)に〈衝撃の結末〉を効果的に演出するための伏線が張られているのだが、その描き方にも、オリジナルとリメイク版では違いが現れる。

 例えば、『バニラ・スカイ』では、映画のある時点から色調が変わる。
 ムードが変わるといったものではない。物理的に、スクリーン上に映し出される映像の色調が変化するのだ。
 それも、観客への配慮だ。
 〈衝撃の結末〉で語られる〈真実〉が受け入れられやすいように、わかりやすい演出がなされているわけだ。

 さらに、このリメイク版でキャメロン・クロウ監督は、実に様々な形で観客へのサービスを行なっている。

 例えば、上でも触れたオープニングのシーン。実は、この映画、主人公の夢から始まっているのだ。
 目が覚めて、出かける支度(したく)をして、車に乗り込む。車を走らせながら、彼は街の様子がどこか奇妙なことに気づく。
 人の姿がないのだ……。
 街のどこにも、人っ子一人いない。彼は恐ろしくなって、車を降り、叫びながら無人の街を走る――そこで、目が覚める。

 クロウ監督が、最初にニューヨークを上空から見下ろしたシーンで始めた理由が、ここで明らかになる。

 『オープン・ユア・アイズ』での無人の街は、いわゆる都会だ。スペインでは有名な通りなのかもしれないが、我々には縁のない、しかし、どこにでもあるような大都会のメインストリート。

 ところがクロウ監督が用意したのは、タイムズ・スクエアなのだ。その名前を知らなくとも、様々な映画でも登場した風景。
 おそらく、世界で最も有名な街角なのではなかろうか。
 そのタイムズ・スクエアが、まったくの無人なのだ。人影のまるでない真っ昼間のタイムズ・スクエアを、トム・クルーズ演じるデヴィッドがたった1人疾走する――これは、ショッキングだし、実にすごいシーンだ。
 このシーンに限れば、映像は確実にオリジナルを超えている。

 また、音楽雑誌記者出身のクロウ監督らしい遊び心に富んだサービスもある。
 ちょっと昔のものだが、『フリーホイーリン』というボブ・ディランの超有名なレコード・ジャケットがトム・クルーズとペネロペ・クルスによって再現されたりするのだ。
 もちろん、単なる監督のお遊びではなく、ちゃんと意味があるのだが。

 こういったサービスや背景の描き込みによって、クロウ監督は、わかりやすく『オープン・ユア・アイズ』をリメイクした。

 なのに、それでも、アメリカの観客たちの間からは「わかりにくい」という声が上がってしまう。
 もしかすると、アメリカだけではないのかもしれない。
 日本でも、『オープン・ユア・アイズ』や『バニラ・スカイ』は、わかりにくいという人がいるのかもしれない。

 じゃあ、いったい〈わかりやすさ〉とは、なんなのだろう?

 お断りしておくが、僕は、アメリカ人の観客たちや、映画に〈わかりやすさ〉を求める人たちを非難しているわけではない。
 僕だって、基本的にはわかりやすいもののほうが好きなのだ。
 わかりやすいことが悪いわけはない。わかりにくいものよりも良いにきまっている。

 でも、この境界線が、実にあやふやで難しい。
 〈わかりやすさ〉と〈わかりにくさ〉の境界線――。

 僕は小説を書いているのだけれど、原稿に向かうとき、いつも不安に駆(か)られる。
 それは「これって、わかりにくくないだろうか?」ってことだ。
 映画を作る監督も、たぶん同じだろう。

 小説を読む読者も、映画を観る観客も、実に様々だ。
 年齢が違う。性別が違う。育ってきた環境が違い、教育が違う。生活習慣が違い、好みや考え方も違う。
 そんな人たちを、映画監督は全部引き受けなきゃならないのだ。

 『オープン・ユア・アイズ』では、主人公セサールが持っている会社のことがほとんど語られずにストーリーが進行する。
 でも、だからわかりにくいかと言えば、けしてそんなことはない。少なくとも、僕にしてみると、会社で発行している雑誌の名前が「ライズ」だろうがなんだろうが、どうでもいいことなのだ。

 クロウ監督は、主人公デヴィッド・エイムスの背景を詳(くわ)しく語ることが、この映画を〈わかりやすく〉するのだと、ほんとうに思ったのだろうか?

 すでに映画をご覧になっている方ならおわかりになると思うが、この作品では、デヴィッドが〈金持ち〉でなければ話が成り立たない、という絶対的な条件がある。ストーリーを成立させるために欠かすことのできない条件だ。
 その条件を満たすために、アメナーバル監督は、主人公を大会社の社長に設定した。死んだ父親から受け継いだ会社だ。アメナーバル監督にとっては、その条件さえ満たしていれば、あとはどうでもよかった。どんな職種の会社なのかも、社内がどういう雰囲気なのかも、不要だった。
 そのあたりの詳細は、ストーリーを成立させるためには、語られる必要がなかったからなのだ。

 しかしクロウ監督は、それでは説明不足だと思ったのだろう。主人公の背景が、あまりにも薄っぺらだと感じ、それでは観客も満足してくれないと考えた。
 だから、『バニラ・スカイ』では、デヴィッド・エイムズの背景が膨(ふく)らむことになった。

 でも、僕などにしてみれば、この映画にとって、主人公のバック・ボーンを膨らませることが〈わかりやすさ〉を生み出すとは思えない。かえって、それをしたために、ストーリーの焦点が甘くなってしまったようにさえ思える。

 〈わかりやすさ〉のためにクロウ監督がしなければならなかったことは、ほかにあるように思えて仕方がないのだ。

 例えば――僕にはとっても不満に思っていることが『バニラ・スカイ』にはある。
 それは、主人公を演じているトム・クルーズの扱いに関するものだ。

 主人公は、元彼女の嫉妬(しっと)に遭(あ)い、交通事故で顔を破壊されてしまう。自他共に認める美貌(びぼう)が、事故を境に獣のような形相(ぎょうそう)に変えられてしまうのだ。
 物語は、その変貌(へんぼう)を軸にして、ねじ曲がりながら進められることになる。

 『オープン・ユア・アイズ』で主人公セサールを演じているのは、エドゥアルド・ノリエガという俳優だ。ある意味、トム・クルーズよりもずっとかっこいい。
 このセサールの変貌は、実に見事だ。
 彼の顔は、本当に醜(みにく)く、徹底的に破壊される。もちろん、特殊メイクなのだが、誰もが〈醜い〉と感じるような出来映えに仕上がっている。

 ところが『バニラ・スカイ』のデヴィッドの変貌は、とても中途半端なのだ。特殊メイクが、トム・クルーズを捨て切れていない。
 憶測(おくそく)だが、大スターのトム・クルーズをグチャグチャに壊してしまうことは、監督にもできなかったのだろう。政治的な力関係もあったのかもしれない。(まあ、トム・クルーズは、この『バニラ・スカイ』のプロデューサーの1人でもあるわけだしね)
 でも、やはりそれでは納得できない。
 生半可な顔では、主人公の心の変化に、観ているこちらが同化できないのだ。だって、主人公が味わう悲劇の、すべての根源が、彼の顔が壊れてしまったことによるのだから。

 『バニラ・スカイ』を一番わかりにくくしているのは、トム・クルーズの〈顔〉だと――僕は思ってしまったのでした。

イラスト:白根ゆたんぽ
【DVD情報】
オリジナル版 『オープン・ユア・アイズ』
●オリジナル版
『オープン・ユア・アイズ』
監督: アレハンドロ・アメナーバル
脚本: アレハンドロ・アメナーバル/マテオ・ヒル
初公開日: 1999年7月
出演: エドゥアルド・ノリエガ/ペネロペ・クルス/フェレ・マルティネス他
 
形式: Color, Widescreen, Dolby
言語: スペイン語、日本語
ディスク枚数: 1
DVD販売元: ポニーキャニオン
DVD発売日: 2004年1月21日
時間: 117 分
リメイク版 『バニラ・スカイ』
●リメイク版
『バニラ・スカイ』
監督: キャメロン・クロウ
脚本: キャメロン・クロウ
初公開日: 2001年12月
出演: トム・クルーズ/ペネロペ・クルス/カート・ラッセル/キャメロン・ディアス他
 
形式: Color, Widescreen, Dolby
言語: 英語, 日本語
ディスク枚数: 1
DVD販売元: パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
DVD発売日: 2005年3月25日
時間: 136 分
前の連載へトップに戻る次の連載へ
(c)2006 Inoue Yumehito / Riron-sha Corporation. All rights reserved.
全体、部分を問わず、このページ以降の無断利用は、かたくお断りいたします。