アマチュアとプロフェッショナル
エッセイの性格上、取り上げる作品の内容、仕掛け、結末などに触れています。ご覧になっていない作品についてはご注意下さい。

更新日:2007/6/9
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 小説なんぞ書く仕事をしていると、他人の作品がどんなきっかけで生み出されたのかってことに、とても興味がわく。まあ、僕の場合、アイデアの枯渇状態(こかつじょうたい)が慢性的(まんせいてき)に持続しているせいで、他人の頭の中が気になって仕方がないからなんだろうけどね、たぶん。
 もちろん、気になるのは小説に限らない。ある音楽が生まれるきっかけ、ある絵画が誕生した経緯(いきさつ)、そして、ある映画が生み出されることになった最初の瞬間を覗(のぞ)き見してみたいと思ってしまうことが、僕にはよくあるのだ。

 そもそも、この「リメイクの誘惑」を書いてるんだって、そんな興味があるからだ。
 リメイク作品ってヤツは、そのきっかけのひとつが最初から明らかにされている。それは、言うまでもなくオリジナル作品の存在だ。監督は――あるいは製作者は、間違いなくオリジナルを観ている。そのオリジナルに感銘(かんめい)を受け、そして何度も咀嚼(そしゃく)を繰り返すうちに、自分の手でそれを作り直してみたいと思うようになるのだ。
 つまり、リメイク作品とオリジナルを比較すれば、監督や製作者の頭の中がちょっぴり見えてくる、というわけだ。

 とても、楽しい。

 ここに、そんな僕の好奇心をメチャクチャ刺激してくれるリメイク作品の好例がある。
 それは、アルフレッド・ヒッチコック監督の傑作サスペンス『知りすぎていた男』だ。この映画のオリジナルは1934年に公開された『暗殺者の家』という古い作品だった。

 これがなぜ《好例》なのかというと、実は、オリジナル版の『暗殺者の家』も、ヒッチコック作品だからなのだ。オリジナルとリメイクが同じ監督の手によって作られたものって……面白いと思わない?
 原題はどちらも"The Man Who Knew Too Much"――まあ、リメイク版の日本語タイトル『知りすぎていた男』は直訳なのですね。

 リメイク版が公開されたのは1956年。今となってはこれも古いけれど、でもオリジナル版が公開されてから22年という年月が経過している。
 ヒッチコックは1940年にイギリスからアメリカへ渡り、その後はハリウッドで数々の名作を生み出すことになるわけだけれど、『知りすぎていた男』は以前ここで取り上げた『ダイヤルMを廻せ!』(1954年)と『サイコ』(1960年)の間に作られたものだ。

 以前自分が作った作品を、しかも22年も前に作った作品を、もう一度作り直す――ヒッチコック監督をリメイクの欲求に駆り立てたものは、いったい何だったのか?

 『暗殺者の家』は、ヒッチコック監督の出世作とも呼べる作品だ。
 もちろん、それ以前から彼は映画を撮ってきた。サイレント映画の時代から監督をやっていた人である。年表を確認してみると、『暗殺者の家』以前に、サイレント時代には9本、トーキーの時代に入ってからは8本の作品を作り上げている。
 もちろん、それら若いころの作品も才能の輝きを見せつけてくれる映画ではあったのだけれど、アルフレッド・ヒッチコックがサスペンス映画監督として世に認められる存在となったきっかけは、この『暗殺者の家』だったのだ。
 つまり、『暗殺者の家』は1930年代当時、飛び抜けて傑出(けっしゅつ)した作品だったってことだ。失敗作だったわけじゃない。むしろ、大成功を収めた作品だった。
 観てみれば、それがわかる。スクリーンに醸(かも)し出される時代感覚が古さを思わせるのは致し方ないが、たたみかけるような展開によるサスペンスは、いま観てもドキドキする。

 しかし、22年後、彼は自分の経歴上での一里塚とも呼べる輝かしい作品を、敢(あ)えて作り直すことにした――。

 なぜだったのだろう。

 その疑問を解く鍵となりそうな言葉が残されている。ヒッチコック自身が、この2作について語った言葉だ。
 言ってみれば、最初のイギリス版(『暗殺者の家』)はなにがしかの才能のあるアマチュアが作った映画だったが、リメイクのアメリカ版(『知りすぎていた男』)はプロが作った映画だったわけだ。
 アマチュアとプロフェッショナル――。
 この言葉の意味するものは明快だ。
 つまり、《完成度》の違いだと言い換えてもいいだろう。

 才能のあるアマチュアは、時として、それまで存在していなかったような斬新(ざんしん)な作品を生み出すことがある。衝撃的な作品は、その《力》によって、映画に革命を引き起こすことだってある。
 しかし同時に、アマチュアの作品は、プロから見ると荒削りだったり、ツメの甘さを感じさせられることも多いのだ。
 「もっとうまく作れば、最高の作品になる素材なのに……もったいない」
 そんな感想を抱かせる新人の作品は、映画だけではなく小説にもある。

 ヒッチコック監督は、22年前に作った自分の作品に、そんな気持ちを抱いたのだろう。
 むろん、その作品が気に入っているからだ。大好きな、思い入れのある作品だからこそ、歯痒(はがゆ)い思いを抑(おさ)えられなくなる。
 今の自分なら、もっとうまく作れるし、この作品が持っている魅力を最大限に引き出すことができるだろうに……。
 その思いが極限まで高まって到達したのが、自分の作品をリメイクするという決断だったのだ。
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 では、アルフレッド・ヒッチコックは『暗殺者の家』をどのようにリメイクしたのだろうか。
 それを知るためには、まず『暗殺者の家』が作られたそもそもの発端から見ていく必要がある。

 1930年代の初めごろ、イギリスのナンセンス・ギャグ雑誌に "The One Note Man(一音符の男)" というタイトルのマンガが掲載された。この1編のマンガが、若きヒッチコックにひとつのアイデアを思いつかせた。

 あるフルート奏者の1日を淡々と描いたマンガだ。
 男が朝起きるところからマンガが始まる。男は顔を洗い、朝食を摂(と)り、身支度(みじたく)を調えて家を出る。静かな1日の始まりだ。男はバスに乗り、アルバート・ホール前の停留所で降りる。
 ホールの楽屋に入ると、男は、持っていた黒いケースからフルートを取り出す。他のオーケストラメンバーと一緒にステージにのぼり、自分の席に着く。そう、彼はフルート奏者だ。
 指揮者のタクトが振られ、静かに演奏が始まる。だが、彼の出番はまだ先だ。男はじっと座ったまま、楽譜のページをめくっていく。彼の楽譜には、延々と休符が並んでいる。
 男は、ひたすら楽譜をめくり続ける。
 そして、ようやく彼の出番が回ってきた。ついに指揮者のタクトが彼に向けられる。男は椅子(いす)から立ち上がり、タクトに合わせて「ピーッ」とたった1音だけフルートを吹き鳴らす。
 そして、吹き終えると、なんと彼は静かにオーケストラから離れ、ステージを降りるのだ。
 楽屋へ戻り、男はフルートをケースにしまう。コートを着て帽子をかぶり、彼はアルバート・ホールを出るのである。
 いつの間にか、もう日は暮れている。バスに乗って家に帰ると、彼は一人で夕食を摂り、シャワーを浴びてパジャマに着替え、ベッドに潜(もぐ)り込む。
 ――ただそれだけのマンガだ。

 1930年代に、こんなマンガが存在していたということも驚異的だ。イギリス的なユーモアがあるし、洒脱(しゃだつ)で楽しい。
 ただ、おそらく大半の人がクスッと笑ってページを閉じてしまうだけのこのナンセンス・マンガが、しかし、ヒッチコックを強烈に刺激した。

 たった1音だけ……。

 ヒッチコックはこのとき、身震いするほどの興奮に襲われたのだ。そして映画のイメージが次々に湧(わ)き上がってきた。

 アルバート・ホールでのコンサートの最中に行なわれる暗殺――というアイデアを、ヒッチコックはこのマンガから得た。
 彼は、マンガでのフルートをシンバルに変えた。コンサートで演奏されるものの中で、たった1度だけシンバルが打ち鳴らされる曲目があったとしたらどうだろう――と彼は考えた。
 その時、演奏は最大のクライマックスを迎え、アルバート・ホールが大音響に呑み込まれる。暗殺者の企みは、そのシンバルに合わせて銃の引き金をひくことだ。銃の音はシンバルと最大音量の演奏にかき消され、観客たちの耳には届かない。チャンスは、その1度しかないが、それが映画の緊張感を最大に高めることになる――。

 このアイデアが『暗殺者の家』の中核に据(す)えられることになった。
 〈シドニー街の銃撃戦〉という名で知られる実話と、このアイデアを合体させられるのではないかと、ヒッチコックは考えたのだという。

 アルバート・ホールでの暗殺――もちろん、その暗殺は阻止(そし)されなきゃいけない。演奏が進み、シンバルの1打が鳴り響く瞬間が、刻一刻と近づいてくる。どうやって阻止すればいい? もう時間がない……。
 では、いったい、誰が暗殺者の計画を阻(はば)むのか?
 女性がいい。凶弾(きょうだん)を阻止するのは美しい女性だ。彼女が、ターゲットにされる大物政治家の命を救うのだ。
 いや……でも、どうして彼女はそんな危険なことをするのか?

 ヒッチコックの頭に、めまぐるしく映像が映し出される。

 そうだ。彼女は母親なのだ。彼女には、自分の命をかけても守らなければならない娘がいる。
 その愛する娘が……ああ、そうか、とヒッチコックは頷(うなず)く。
 誘拐(ゆうかい)されているのだ。秘密を洩(も)らせば娘の命がないと脅(おど)されているのだ。その秘密とは、もちろん暗殺計画のことだ。
 いや、母親はいいが、父親は何をやっているんだ? 母親だけに娘の救出を任せておくわけにはいかないだろう。むしろ、実際に娘を助け出す役目は父親のほうがいい……。

 そうか、秘密を知ったのは父親のほうなのだ。
 旅先で――そう、家族での楽しい旅行が、一転して地獄のような体験に変わる。旅先で会った男が、彼らの前で殺される。その男が息を引き取る直前、父親にある秘密を告げるのだ。知らなくてもいい秘密を知ってしまったがために……。

 たぶん、こんなふうにして、ヒッチコック監督はアイデアを膨(ふく)らませていったんじゃなかろうか。

 そして『暗殺者の家』が完成する。
 暗殺団の首領を演じたピーター・ローレの怪演も手伝って、映画はイギリス時代のヒッチコック監督作品最大のヒットを記録した。さらに、作品は海を越え、アメリカでも大きなヒットを収めることになった。
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 オリジナル版『暗殺者の家』と、リメイク版『知りすぎていた男』には、様々な違いがある。ストーリーの骨組みは同じだが、見比べれば、ヒッチコック監督がどうしてこれをリメイクしたいと思ったのかがかなり鮮明に見えてくる。
 多くの違いをすべて取り上げる余裕もないので、最大のポイントをご紹介することにしよう。

 何よりも重要なのは《シンバルの1打》の描き方だ。
 つまり、暗殺シーンの描き方ということだ。

 そう、もともと『暗殺者の家』は《シンバルの1打》というアイデアから始まった。
 ストーリーは、アルバート・ホールでシンバルが打ち鳴らされる一瞬に向かって集約されるような作り方がなされている。
 だから、映画全体の要(かなめ)であり、最も力を注がなければならないポイントなのだ。

 新旧、使われている曲は同じものだ。アーサー・ベンジャミンという人の書いた「ストーム・クラウド・カンタータ」がアルバート・ホールで演奏される。
 《シンバルの1打》という要求に従って『暗殺者の家』のために書き下ろされた曲だが、作品のテーマとしてこれ以上の曲は考えられないからと『知りすぎていた男』でもまったく同じものが使われた。
 しかし、その扱いがかなり違ったものになっている。

 まず、映画のオープニング。
『暗殺者の家』は、スイスの雪山で行なわれている競技会から幕を開ける。主人公夫婦と娘がスイスを訪れている。実は、母親もライフル射撃競技の出場者なのだ。
 ところが『知りすぎていた男』のオープニングは、オーケストラである。タイトルバックのスクリーンには、打楽器セクションが映し出され、そしてタイトルが進むにつれ、画面はシンバル奏者に近づいていく。演奏されているのは、もちろん「ストーム・クラウド・カンタータ」だ。タイトルが終わると同時に、画面いっぱいにシンバルの1打が響き渡る。そこに、スーパーが重ねられる。
 このシンバルの一打が、平凡なアメリカ人家族の生活を揺さぶった。
 観客は、映画が始まった直後からシンバルへの注意を喚起されることになる――。

 次に暗殺計画。
 暗殺者は、首領から銃の引き金を引くタイミングを、レコードを聴きながら教えられる。演奏が最大に高揚し、一瞬の静寂の後、シンバルの一撃と同時に爆発のような最大音が響き渡る。そのレコードを聴かせ「ここだ」と教えるのだ。

 『暗殺者の家』では、レコードのその部分を1度聴かせるだけなのだが、『知りすぎていた男』では、これを2度繰り返して聴かせるのである。さらに、暗殺者がアルバート・ホールに出発するために部屋を出た後、首領は満足そうな笑みを浮かべながら、もう1度、同じ場所にレコードの針を落とす。
 つまり、『知りすぎていた男』ではアルバート・ホールでの暗殺シーンの前に3度――いや、冒頭のオープニングを加えると4度 《シンバルの1打》が演奏されるのである。

 ここまでやられると、観客は否が応でもシンバルに注意を集中させられてしまう。それがサスペンスの緊張感を最大に高めてくれるのだ。

 そして、なんと言っても、極めつきはそのアルバート・ホールでのシーンである。
 まず演奏時間が違う。
 『暗殺者の家』では、シンバルが打たれるまでカンタータは約4分間流れる。
 ところが『知りすぎていた男』では9分間も演奏が持続する。倍以上だ。つまり「ストーム・クラウド・カンタータ」のほぼ全曲が、丸々カットされることなく演奏されるのである。

 そしてその9分間のサスペンスは、オリジナル版とは比較にならないほどの迫力を持っている。
 『暗殺者の家』では演奏が始まってから、シーンは暗殺団のアジトに切り換えられたりするのだが、『知りすぎていた男』では、カメラはアルバート・ホールから外には出ない。
 母親役のドリス・デイと、父親役のジェームズ・スチュアート、銃を携(たずさ)えた暗殺者、ターゲットにされている首相、そしてステージ上での演奏――それらを切り返しながら《シンバルの1打》への緊張が高められていく。

 しかも、その9分間、台詞(せりふ)は1つもないのだ。言葉はすべてがカンタータの演奏にかき消されている。

 さらに特筆すべきなのは、楽譜の使い方だ。
 刻一刻、シンバルの打たれる時が近づいている。その切迫した時間を、ヒッチコックは楽譜をトレースすることで表現した。
 観客には、その楽譜がまるで火のついた導火線のように感じられる。前代未聞の演出だった。

 このことについて、ヒッチコック監督が語った言葉がある。
 アルバート・ホールのシーンで、映画の観客が楽譜を読むことができたら、もっと理想的だっただろう。
 もちろん、『知りすぎていた男』でヒッチコックが行なった改訂はこれだけではない。
 歌手のドリス・デイを母親役に据えたことで、映画全体は華やかになったし、彼女の歌う「ケ・セラ・セラ」は映画公開後、大ヒットした。もちろん、単なるサービス曲ではない。ストーリー上、非常に重要な役割を、監督はこの曲にも持たせている。

 リメイクされることによって、『暗殺者の家』は、より完璧なサスペンス映画として再生した。
 『知りすぎていた男』は、監督の意地とこだわりによって完成された作品なのだと、僕は思う。

イラスト:白根ゆたんぽ
【DVD情報】
オリジナル版 『暗殺者の家』
●オリジナル版
『暗殺者の家』
監督: アルフレッド・ヒッチコック
脚本: エドウィン・グリーンウッド/A・R・ローリン/D・B・ウィンダム
初公開日: 1935年12月
出演: ヒュー・ウェイクフィールド/レスリー・バンクス/エドナ・ベスト/ピーター・ローレ他
 
形式: Black & White, Dolby
言語: 英語、日本語
ディスク枚数: 1
DVD販売元: ファーストトレーディング
DVD発売日: 2006年12月14日
時間: 75分
リメイク版 『知りすぎていた男』
●リメイク版
『知りすぎていた男』
監督: アルフレッド・ヒッチコック
脚本: ジョン・マイケル・ヘイズ/アンガス・マクファイル
初公開日: 1956年7月
出演: ジェームズ・スチュアート/ドリス・デイ/ラルフ・トルーマン/ダニエル・ジェラン他
 
形式: Color, Widescreen, Dolby
言語: 英語, スペイン語
ディスク枚数: 1
DVD販売元: ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン
DVD発売日: 2005年12月23日
時間: 120分
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